文化経済学

実用性だけで世の中は測れない

 科学技術の反対であり、実用性の反対であると捉えられるのが「芸術文化」である。古くから経済思想の中には、文化的価値というものが組み込まれていた。しかし現代の主流派経済学は、合理性を厳格に仮定するために人それぞれの"生"の価値をそぎ落とす結果となっている。物の豊かさに心の豊かさを加える異端の経済思想。

日本は「豊か」なのか

 日本は戦後復興を経てめざましい経済発展を遂げ、アメリカ・中国に次ぐ第3位の経済大国となっています。国として「豊か」か「貧しい」かと問われれば、おそらくかなりの割合で「豊かである」と答えるはずです。しかしその「豊かさ」という概念がモノの豊かさではなく、ココロの豊かさであればどうでしょうか。

 内閣府が実施している「国民生活に関する世論調査」は物の豊かさと心の豊かさどちらに重きを置くかという調査を行っています。その結果を時系列でまとめたものが図1です。1970年代では物の豊かさが心の豊かさと拮抗、ないしは上回っていますが、1980年代に入ると一転して、心の豊かさが物の豊かさに差をつけて上回っています。

 経済発展や科学技術の進歩は我々に多くのモノをもたらし、日本を「豊か」にしました。しかしそれに伴うひずみは決して小さいものではなかったことを認識し、真摯に向き合っていかねばなりません。

図1 心の豊かさと物の豊かさ *クリックして拡大

文化経済学とは

 「モノの豊かさからココロの豊かさへ」はもはや文化経済学のみならず、あらゆる文化論の常套句となっています。文化経済学は広く文化芸術産業の分析が主な研究分野です。より広範には金銭的価値・効率性の偏重のアンチテーゼとしての経済分野ともよばれるのがこの文化経済学です。文化経済学では主に以下の4つの研究領域があります。

 本記事では特に最後の経済思想としての文化経済学に焦点を当て、1人の思想家、ジョン・ラスキンの思想について紹介しましょう。

ラスキンの経済思想

 ラスキンとその意思を受け継ぎ発展させたモリスの思想は、いわば「市場原理主義者への反発」となります。その思想の核心は、古典派経済学(現代主流派経済学も)が設定している「価値」そのものに対する反発です。

 まずラスキンは市場原理主義の「交換価値」は正しく価値を表していないとして、「固有価値(intrinsic value)」と「有効価値(effectual value)」があると価値を2つに分けて捉えます。2つの価値のうち有効価値は人々に認められた価値で、人それぞれの感受性によって変化し、これが文化水準に影響を与えると主張します。そしてもう一つ固有価値こそが生きる喜び、すなわち幸福につながると考えたのです。

 市場原理主義の問題点は、この固有価値を理論化する段階で無視し有効価値しか見ていない点にあるとしています。そしてその結果として、人々は有効価値でしかない金銭を貯蓄することに盲進する、と言及しています。ラスキンはこの後、貨幣の貯蓄が手段から目的に変わることによって、階級闘争や戦争になるとまで話を進めていますが、そこは議論の余地がまだあるでしょう。大切なことは「貨幣という有効価値の貯蓄に邁進しようが、固有価値は満たされるわけではない」という点です。

 さらに語れば、ラスキンは美術品などの一点物だけではなく、大量生産される織物や陶器のデザインの芸術性にも言及しています。これは経済学の大前提が「市場で取引される財」すなわち、売り手と買い手が無数に存在して大量生産できる財が仮定されており、一点物の芸術は例外だという意見に対する反論です。

 これ以上詳しくは紙幅の関係上難しいため、池上(2003)を参照されたい。

post-ラスキンと今後の展開

 ラスキンの後「文化経済学の古典中の古典」とも評される『舞台芸術ー芸術と経済のジレンマ』がウィリアム・ボウモルとウィリアム・ボウエンによって著されます(ボウモル, ボウエン 1994)。いわく、舞台芸術という"サービス"は製品の標準化が著しく困難かつサービスの質はどれほど労働力を投入したかであるため、生産性を高めることが難しく供給価格が高止まりしてしまう。これを「コストのボウモル病」として、芸術に対する政府の公的支援の必要性を説いています。

 ボウモル病は2節で述べた文化経済学の研究領域の3つ目につながるわけですが、ミクロ的側面の供給者分析にもつながります。文化振興政策としてのミクロ的側面でインセンティブ設計に踏み込んだ研究の蓄積はまだ発展途上です。(ただ芸術家にインセンティブはいらないという主張も散見されますし、それは一理あると考えています)

 また1998年ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの効用・富裕という概念の問い直しは、現代経済学の仮定が現実離れしていることを指摘しました。(Sen(1986))。資本主義をはじめとした現代経済学はすでに限界に達しているという主題の書籍も散見される現在、文化経済学は経済学が生活の質という概念を問い直し、再出発する礎になる可能性があると言っても過言ではないのかもしれません。

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参考文献